阪大でフットサル中の18歳の男性が、胸にボールを受けた直後に
意識をなくして倒れ心配停止になったが、AEDと周りの学生の連係プレーで
九死に一生を得たというニュースが伝わってきました。
ほんの数年前までは、よっぽど運がなければなくなっていたケースです。
救急隊の到着までは、全国平均で6分あまり。
このケースでも、胸部にボールを受けたあと、心配停止になったとうことは
「心臓震盪」を起したのでしょう。
心臓には一定のリズムがあって、収縮と拡張を繰り返して血液を全身に送り出しています。
この心臓は器械にたとえると、電気仕掛けのポンプで
心臓の上部にある一定の場所(洞結節)から発生した電気信号が、心臓全体を伝わりながら収縮していき、そして次の信号が来るまでの間に回復期が訪れます。
この一定のサイクルを繰り返しているのですが、このサイクルの中でほんの短い時間ですが、
ある時間の部分に衝撃を受けると、そこからリズムが乱れだして致死的不整脈と呼ばれる「心室細動」という不整脈を起してしまいます。
皇室の三笠宮殿下もカナダ大使館でスカッシュのプレー中に、この不整脈を発生してお亡くなりになっています。このときは、胸部に衝撃を受けたわけではありませんが、何らかの不正な電気信号が、ある一定の部分に起こって、そこから致死的不整脈(心室細動)を発生したものと思われます。
三笠宮殿下がカナダ大使館で倒れられたときにAEDがあれば、結果は違ったものになった可能性があります。
まさに、その違った結果というのが、今回の阪大での出来事なんでしょう。
AEDの配置はまだまだです。
しかし、確実にその配置の数は増えていっています。
そして大切なのは、その配置されている施設の職員が心配蘇生法やAEDの取り扱いについて
講習を受けているという天です。
これからますます増えていくことでしょう。
私たちの周りに、普通にいたるところにAEDの文字が目の当たりにできる日が来れば
きっとモットたくさんの不幸な出来事が減っていくことだと思います。
何はともあれ、この阪大生が死のふちから蘇ったこと、
そして、見て見ぬふりをしなかった若者たちに拍手を送りたい。
意識をなくして倒れ心配停止になったが、AEDと周りの学生の連係プレーで
九死に一生を得たというニュースが伝わってきました。
ほんの数年前までは、よっぽど運がなければなくなっていたケースです。
救急隊の到着までは、全国平均で6分あまり。
このケースでも、胸部にボールを受けたあと、心配停止になったとうことは
「心臓震盪」を起したのでしょう。
心臓には一定のリズムがあって、収縮と拡張を繰り返して血液を全身に送り出しています。
この心臓は器械にたとえると、電気仕掛けのポンプで
心臓の上部にある一定の場所(洞結節)から発生した電気信号が、心臓全体を伝わりながら収縮していき、そして次の信号が来るまでの間に回復期が訪れます。
この一定のサイクルを繰り返しているのですが、このサイクルの中でほんの短い時間ですが、
ある時間の部分に衝撃を受けると、そこからリズムが乱れだして致死的不整脈と呼ばれる「心室細動」という不整脈を起してしまいます。
皇室の三笠宮殿下もカナダ大使館でスカッシュのプレー中に、この不整脈を発生してお亡くなりになっています。このときは、胸部に衝撃を受けたわけではありませんが、何らかの不正な電気信号が、ある一定の部分に起こって、そこから致死的不整脈(心室細動)を発生したものと思われます。
三笠宮殿下がカナダ大使館で倒れられたときにAEDがあれば、結果は違ったものになった可能性があります。
まさに、その違った結果というのが、今回の阪大での出来事なんでしょう。
AEDの配置はまだまだです。
しかし、確実にその配置の数は増えていっています。
そして大切なのは、その配置されている施設の職員が心配蘇生法やAEDの取り扱いについて
講習を受けているという天です。
これからますます増えていくことでしょう。
私たちの周りに、普通にいたるところにAEDの文字が目の当たりにできる日が来れば
きっとモットたくさんの不幸な出来事が減っていくことだと思います。
何はともあれ、この阪大生が死のふちから蘇ったこと、
そして、見て見ぬふりをしなかった若者たちに拍手を送りたい。
「稲むらの火」とは、一人の老人が、地震の後海水が沖へ向かって引いていくのを見て、津波の襲来を予感し、高台にある自分の収穫した稲むら(稲刈りの後、乾燥のために干している状態)に火を放って村人の注意を引き、人々を津波から救ったという物語です。
昭和23年ぐらいまでは教科書の教材として、津波災害の恐ろしさを伝えてきた教材だったようです。。短いものなので、紹介したいと思います。
------------------------<稲むらの火>----------------
「これはただごとではない」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に激しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。五兵衛は、自分の家から、心配げに下の村を見下した。村では、豊年を祝うよい祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気づかないものの様である。
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこにすい付けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない!」
と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、4百の命が、村もろとも人のみにやられてしまう。もう一刻の猶予はできない。
「よし」
と、叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、松明(たいまつ)をもって飛び出してきた。そこには、刈り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救えるんだ」
と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。ひとつ、また、ひとつ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の他のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこで突っ立ったまま沖のほうを眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この日を見て早鐘をたたきだした。
「火事だ!庄屋さんの家だ!」
と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。高台から見ている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思えた。やっと、20人ほどの若者が、駆け上がってきた。彼らは、すぐに火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に行った。
「うっちゃっておけ!大変だ。村中の人に来てもらうんだ!」
村中の人は、追々集まってきた。五兵衛は、あとから後から上がってくる老幼男女を一人ひとり数えた。集まってきた人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。そのとき、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ!やって来たぞ!」
たそがれの薄明かりを透かして、五兵衛の指差すほうを一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。
「津波だ!」
と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がにしかかってきたような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきを以って、陸にぶつかった。人々は、われを忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙のほかは、一時何者も見えなかった。人々は、自分らの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進みまた退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一堂は、波にえぐりとられて跡形もなくなった村を、ただあきれて見下していた。
稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり、夕闇に包まれた辺りを明るくした。初めてわれに帰った村人は、この日によって救われたのだと思うと、無言のまま五兵衛の前に膝まづいた。
------------------<稲むらの火>-----------------------
この物語は、昭和23年ごろを最後に教科書から姿を消したといわれています。
実は、この物語は作り話ではなく、実話に基づいています。
1854年(安政元年)に起きた安政南海地震の際に、紀州和歌山藩広村(現在の和歌山県広川町)で、実際にあった話でモデルとなった人物も存在します。
東南海地震の脅威が叫ばれています。
海と接する日本の国土では、常に地震と津波とはセットで考えるべきです。
津波について、再考してほしいものです。
昭和23年ぐらいまでは教科書の教材として、津波災害の恐ろしさを伝えてきた教材だったようです。。短いものなので、紹介したいと思います。
------------------------<稲むらの火>----------------
「これはただごとではない」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に激しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。五兵衛は、自分の家から、心配げに下の村を見下した。村では、豊年を祝うよい祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気づかないものの様である。
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこにすい付けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない!」
と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、4百の命が、村もろとも人のみにやられてしまう。もう一刻の猶予はできない。
「よし」
と、叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、松明(たいまつ)をもって飛び出してきた。そこには、刈り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救えるんだ」
と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。ひとつ、また、ひとつ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の他のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこで突っ立ったまま沖のほうを眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この日を見て早鐘をたたきだした。
「火事だ!庄屋さんの家だ!」
と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。高台から見ている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思えた。やっと、20人ほどの若者が、駆け上がってきた。彼らは、すぐに火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に行った。
「うっちゃっておけ!大変だ。村中の人に来てもらうんだ!」
村中の人は、追々集まってきた。五兵衛は、あとから後から上がってくる老幼男女を一人ひとり数えた。集まってきた人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。そのとき、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ!やって来たぞ!」
たそがれの薄明かりを透かして、五兵衛の指差すほうを一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。
「津波だ!」
と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がにしかかってきたような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきを以って、陸にぶつかった。人々は、われを忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙のほかは、一時何者も見えなかった。人々は、自分らの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進みまた退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一堂は、波にえぐりとられて跡形もなくなった村を、ただあきれて見下していた。
稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり、夕闇に包まれた辺りを明るくした。初めてわれに帰った村人は、この日によって救われたのだと思うと、無言のまま五兵衛の前に膝まづいた。
------------------<稲むらの火>-----------------------
この物語は、昭和23年ごろを最後に教科書から姿を消したといわれています。
実は、この物語は作り話ではなく、実話に基づいています。
1854年(安政元年)に起きた安政南海地震の際に、紀州和歌山藩広村(現在の和歌山県広川町)で、実際にあった話でモデルとなった人物も存在します。
東南海地震の脅威が叫ばれています。
海と接する日本の国土では、常に地震と津波とはセットで考えるべきです。
津波について、再考してほしいものです。

